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感情のレッスン [日記/kazuya/夏の椅子]

 拝啓
 湿気が肌にまといつく時節いかがおしのぎですか。大学の新年度が始まってすでに一月半が経ちますが、こちらは例年にない忙しさでした。御無沙汰心苦しく思っております。散歩などにも出歩きたいと思案しておりましたがパソコンに向かって作業しているうち、いつの間にか時間がすぎていきます。せめてブログの更新はこうして暇をみつけておこないたいと思っております。
 更新を再開するにあたって、以下のようにカテゴリ名を改めてみました。

 専門カテゴリ:書評/月間ベスト10
 その他カテゴリ:日記/夏の椅子

 書評では僕が月間に読んだ作品のベスト10を挙げてみたいと思っております。「本」ではなく「作品」です。一月で10冊も読んでいるか自信がないので。日記は「夏の椅子」と題しましたが、こちらは季節にあわせて題名を変える予定です。
 ところで今日のことですが友人に侯孝賢(台湾の映画監督)の『戯夢人生』を紹介しました。内容は言葉が足りずに伝えられなかったのですが、それはさておき改めて「戯夢人生」とは何ともよいタイトルだなあと思ったのです。侯孝賢の作品には表情豊かなタイトルが多いのです。試みに抜粋してみます。

 川の流れに草は青々(在那河畔青草青 1982年)
 童年往事-時の流れ(童年往事 1985年)
 恋恋風塵(戀戀風塵 1987年)
 悲情城市(悲情城市 1989年)
 戯夢人生(戯夢人生 1993年)
 好男好女(好男好女 1995年)
 憂鬱な楽園(南國再見、南國 1996年)
 珈琲時光(珈琲時光 2003年)
 百年恋歌(最好的時光 2005年)

 最後の二作に「時光」という漢字が使われていますが、この言葉のニュアンスには日本語の「時間」にない空間的な広がりが含意されているとか。他に王家衛(香港の映画監督)の作品ですが『花様年華』というタイトルもあります。〈花の様に歳月は華やぐ〉と訳したらよいでしょうか。僕自身もカテゴリや作品にそのようなタイトルを付けられれば、さぞ楽しいと思います。
 蛇足が長くなりました。どうぞお元気で、体調などお崩しになりませぬよう。
                                           敬具
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御詫び 書くことの意味、そして責任 [日記/kazuya/夏の椅子]

 2月下旬から御無沙汰しました。その間やることもやらず、運営メンバーには申し訳ありません。

 ブログに姿を現せなかった理由は諸々ですが、大きなものは2つです。1つは、「30日連続更新」(注:毎日記事を更新する挑戦をしていました。途中、計4日の穴があります)を終えたのですが、予想以上に達成感がなく、短いようで長い、かつ地味でエゴイスティックな挑戦のあとで、一種の喪失状態に陥っていたことです。

 そしてより大きな理由は、上にも書いたように、「連続更新」の後半で僕の記事が羅列されていくなか、この作業がエゴではないか、という指摘を運営メンバー外の読者から受けたためです。と同時に、(特に「社会」について書いた記事の中で)僕の傲慢だったり世間知らずだったりする発言が、その読者に少なからぬ不快感を与えたことを知り、僕自身がショックを受けたということもありました。

 (「コメント欄」外で指摘を受け話し合ったことであり、本人とは解決をしましたが)そのような予想外の反応を受けて、ブログ記事を含め改めて「書くこと」の責任について考えさせられました。

 僕自身は普段、面と向かって他人に自分の意見を伝えることは得意ではないのですが、そうは言っても日常で色々と感じることや思うことはあるので、それを何とか文章に起こし読者から反応を得られればと考えていたのですが、自分の文章で読み手を不快な気分にさせる可能性があることまでは考えていませんでした。

 いや、考えていなくもなかったのですが、自分が他人を不快にさせる意思をひとかけらも込めていない(つもり)の文章で、誰かを不快にさせるとまでは考えていなかったのです。

 そのような可能性に気づかされたとき、それでも文章を書き発表することの意味が、僕自身の中で見出せなかったことが、僕自身、運営メンバーとして責任ある立場にいながら、このブログに姿を現せなかった大きな理由でした。

 現在は少しずつ立ち直りつつあります。

 ロゴ制作に関わる議論が停滞していることは僕の責任ですし、また幾つか前の拙記事の「コメント欄」を見ていたら(僕自身、特に連続更新の最中は2、3前の記事になるとコメント欄をチェックする余裕がなく読めていなかったのですが)、記事本文を踏み台にして読者同士が自律して語り合っているのを読み、書いていて良かったと理屈でなく励まされたためです。

 書くことにまつわるエゴイズムの問題は僕の中でまだ答えを出せていませんが、書くことの責任を考えながら(もちろん、当面の運営メンバーとしての責任を果しつつ)、これからも書いていこうと思っています。御迷惑をおかけすることもあるかもしれませんが、皆様これからもよろしくお願い致します。


追記:
 「30日連続更新」は、これにて一区切りとさせていただきます。なお、「連続更新」の内容自体に関しましては、後々振り返ってみたいと考えています。
タグ:第30+1日目
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金銭譚 [日記/kazuya/夏の椅子]

 大戸屋

 座席に案内されると、隣卓に年輩の男女が座っている。聞こえるともなくきこえてくる会話から、年老いた女性が「母親」で四十代前半の男性が「息子」らしい。

 「母親」が席を立つ。ふと見ると、「息子」が「母親」の手提げ鞄から財布を取りだし、慣れた手つきで一万円札を抜いている。

 鞄にかかっていた上着を入念にかけ直していることから、黙って盗っているらしいとわかる。

 横目で見ながら、僕はなぜだか〈笑い〉が込みあげてきてしかたがない。

 「母親」が席に戻ってくる。母子は何気ない調子でふたたび会話を始める。
タグ:第29日目
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トークセッション 「同意」と「違和」 [日記/kazuya/夏の椅子]

 久しぶりに本屋へ行った。池袋のジュンク堂だ。最近はAmazonで本を買ってばかりなので、本屋には足を運んでいない。

 ジュンク堂に行ったのも、本が目当てというよりは、トークセッションを聞く目的だった。


   ムツミの対話――山城むつみ×神山睦美


 冒頭の「同意」と「違和」に関する議論が興味深かった。対話における声の亀裂は、「違和」によって生じるのではなく、むしろ「同意」する瞬間に生じる。

 例えば、死の間際にいるX氏が「いい人生だった」と考えたとする。その瞬間、横から家族が「いい人生だったね」と声をかけた場合を考えてみる。X氏の人生を「いい人生だった」と肯定していることに関しては両者は同じだが、家族に「いい人生だったね」と言われた瞬間、X氏は急に不安になる。

 そのような「同意」の瞬間に、人間は他者との間に屹立する越えられない壁を認識するというのだ。ドストエフスキーの作品郡を分析した、山城むつみの考察だ。

 本ブログに関しても、少なからず示唆的であるかもしれない。「違和」よりも「同意」を求めるべきか。あるいは、「同意」よりも「違和」を求めるべきか。

 そのように考えていくと、ますますカオスに陥るので、できれば避けたい問いだ。
タグ:第28日目
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対人関係 距離感 [日記/kazuya/夏の椅子]

 就活難だからだろうか、「コミュニケーション能力」という言葉をよく耳にする。

 断定はできないが、僕は「コミュニケーション能力」とは、他人との距離感を測る得手不得手の問題だと思っている。「誰とでも話すことができる能力」というよりは、好みや状況に合わせて、他人との距離を詰めたり空けたりすることのできる能力だと思う。もちろん、話術も多少は関係あるだろうけれど。

 僕はどうしても、全員との距離を詰めなければと考えてしまい、逆に苦手な人との間に空いた距離が気になってしまう。ギクシャクする。

 場に馴染んでいる人を見ると、やはり距離の調節が上手いと思う。


   〈打ち明けて語りて 何か損をせしごとく思いて 友とわかれぬ〉


 石川啄木の句(『一握の砂』所収)だ。期待して距離を詰めすぎると、帰り道で、虚ろな気分にとらわれることもある。

 距離の調節ができない、あるいは狂わされている作家というと、小島信夫とカフカだと僕は思う。(勝手な解釈ではあっても)自分と同じ問題意識をもった作家を読むのは、貴重な体験だ。興味深い作家は数多くいるものの、とりわけ自分と合った作家の作品というのは、読書の強度が別格に感じられる。

 「心の琴線に触れる」という表現が嘘ではないと思える。文字通りかき鳴らされるのだ。自分に引きつけて読みすぎだろうか。

 ここ数日、カフカの『審判』を読んでいる。主人公ヨーゼフ・Kと周囲の人物との距離感がいまいち把握できない。同僚一人とっても主人公とどの程度、親密なのか。不安にさせられる、と同時にどこか惹きつけられる。
タグ:第27日目
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文学/社会/生活 [日記/kazuya/夏の椅子]

 昨日も飲み会。

 午前中から大学の同期生と文芸誌vol.2の打ち合わせをし、飲み会。その後、先輩に呼ばれて塾の飲み会にも顔を出してから、深夜に帰宅した。携帯を見ると、彼女からのメールがあった。
 
 文学専攻の学生にとって、学術・創作面での願望と、職業面での願望、生活面での現実は必ずしも結びつかない。というか、バラバラで折り合いがつけられないものだ。

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 大学の同期生とは創作面での夢を語り合い、研究の進捗状況について話し合った。就職の話題もウェイトを占めていたが、そこでは何より研究・創作を軸にしできる限りその2つを継続するうえで有益となる職業は何か、といったスタンスで話し合いが進んだ。

 博士課程へ進み、非常勤講師で食いつなぎながら研究・創作を続ける。仲間で起業し、あるいは農業を始めて農耕雨読の生活にいそしむ。話していると夢は膨らみ、何でもできる気がしてくる。

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 アルバイト先の塾には、特殊な経歴の同僚がいる。人生の半分近くを外国で過ごし、将来は外資系や翻訳会社に就職しようとしている先輩。大検を経て文系大学に通っているが、医者になるという夢に挑戦しようとしている友人。彼らと話していても、職業への情熱と向上心が感じられて、僕は楽しい。

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 ただし家に帰ってくると、家族や恋人が待っている。それらの人々を「守る」というと大袈裟だが、いずれにしても僕にとっては大切で、軽々しく切り離せない。皆の要求する生活面での現実感に戸惑うことがよくある。「大人」になりきれていない証拠かもしれないが、他の2つの世界を知っている分、願望と現実との隔たりに戸惑ってしまうのだ。

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 僕は嘘を吐くことが苦手、というか向いていない性分なので、それぞれの場所でそれぞれの人に自分の本心を伝えているつもりだ。でも、目の前の人を不快にし否定されることも恐れているので、たまに小さな嘘を吐いて曖昧にごまかすこともある。我を通せない。
 僕は最近では3つの世界を、主体性なくふらふらとさまよっている。
タグ:第26日目
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ジョギング 「空白」 [日記/kazuya/夏の椅子]

   僕は走りながら、ただ走っている。僕は原則的には空白の中を走っている。逆の言い方をすれば、空白を獲得するために走っている、ということかもしれない。そのような空白の中にも、その時々の考えが自然に入り込んでくる。…(中略)…それは内容ではなく、空白性を軸として成り立っている考えなのだ。
                           (村上春樹『走ることについて語るとき僕の語ること』、文芸春秋)


 走り始めてから、雪や雨に中断させられたが、地味に続いている。

 走っていると、村上春樹の書いているように、しばしば意識が「空白」に浸されることがある。思考がぼかされ、ふと気づくと風景の思わぬ物に焦点があてられていたりする。


   川のことを考えようと思う。風景のことを考えようと思う。しかし、本質のところではなんにも考えてはいない。僕はホームメードのこぢんまりとした空白の中を、懐かしい沈黙の中をただ走り続けている。……
                                                              (同上)


 村上の、「ホームメードのこぢんまりとした空白」という比喩は腑に落ちる。普段意識することはないが、走っていると、まさに「ホームメード」の、手製の「空白」とでも言うべき何かに頭の中が満たされていると感じる。(「空白」に満たされるという表現は矛盾しているようだが)

 「空白」とは、隙間とも言い換えられるかもしれない。走っている間は絶えず空間を移動するから、視線が定まらず、ということは意識が散漫になって、幼年時代の断片的な記憶や直下の石ころなどが覚えず接合しオーバーラップする。

 そうした空間的にも時間的にも雑多な思考の隙間を、縫うようにランナーは走っていくのだ。

 「隙間」は言うまでもなく、自分自身を形成する思考の間である。「ホームメード」とは、まさにその謂いだろう。ただし、一般的な「無意識」とも少し違うように感じるのは、その「空白」にうっすらと肌触りがあるからだ。

 上記「懐かしい」という表現が、二重性を帯びてくる。村上春樹が30年間走り続けた、それだけ馴染み深い「空白」と付き合ってきたという懐かしさと、自身の始原へ触れるような懐かしさだ。言い過ぎだろうか。

 今日はジョギング中に小雨が降ってきた。毛穴を突くような細かい雨だった。
タグ:第25日目
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『ペドロ・パラモ』の吸引力 「ばらけ」の感覚 [日記/kazuya/夏の椅子]

 ホアン・ルルフォ『ペドロ・パラモ』を読了。

 この作品は雑誌『考える人』2008年春号特集、126人の作家・文学者が選んだ「海外長編小説ベスト100」にも、84位でランクインしている。

 筋を述べるのに一筋縄ではいかない。訳者・杉山晃によれば、『ペドロ・パラモ』は70の断片によって成り立つとされるが、一つひとつの断片が語るストーリーが、連続している場合もあれば飛躍している場合もある。
 
 基軸となるのは、冒頭の語り手である「おれ」が、母の遺言に従い、「ペドロ・パラモ」という名のまだ見ぬ父を探してコマラを訪れ、土地の人々と会話する一連のエピソードだ。だが、ページを繰るにしたがって、時間が飛躍し生者と死者の語りが混交し始め、ストーリー・ラインがばらけていく。あげくに、どうやら「おれ」もまたすでに死に、墓の中で語っているらしいことがわかってくる。

 読書中、個人的に面白かったのは、『ペドロ・パラモ』の「ばらけ」が、並行して読んでいる他の作品にまで侵食してくることだ。アンドレ・ジッドの『狭き門』(77位)を併読していたのだが、ページを這う視線がばらけ、行間をさまよい、あげく『ペドロ・パラモ』のエピソードと混同することも度々だった。

 また、読み終えてしまうまでは、本を伏せているときでも、常にうずうずと気になった。頭の中で、ばらばらのエピソードや声が、落ち着きなく浮遊している感じがするのだ。

 読み終えてみて、解釈しきれない部分が多々残るというのも正直な感想だ。ただ、『ペドロ・パラモ』を開けば、魅惑的な読書体験ができるということは確かなようだ。
タグ:第24日目
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文学/社会 [日記/kazuya/夏の椅子]

 昨日は飲み会。

 たまに法学部の人と話をすると、自分が背骨のない、ぐにゃぐにゃの軟体動物ででもあるような気分になってくる。

 文学は法学ほど、社会と直接には関わっていない。ただ、全く関わっていないわけでもない。

 ところで、僕が「文学」という言葉を使う場合、暗黙のうちに小説を念頭に置いてしまっているが、文学とはそもそも、詩、短歌、俳句、評論などを加えた、言葉に関する言説の総合だということは、忘れてはならないことだろう。

 一方で、文学とは作品につきるという説も有力だ。(これは、決して評論などを軽んじているわけではない)

 作品ならば、少なからず読んできたつもりだ。文学で一本立ちしている方々に比べれば、圧倒的に足りないことは自覚しつつも、学部時代から5年間、文学に費やしてきた。

 にもかかわらず、例えば小説をいくら読んでも、社会について少しでも分かった気がしないのは、何故だろう。僕の読書の選択が悪いのだろうか。しばしば、自己嫌悪に陥る。
タグ:第23日目
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大掃除 プロット発見!? [日記/kazuya/夏の椅子]

 数日ぶりにアルバイトが休みだったので、決意して大掃除を始めた。

 足の踏み場もなかったのだ。徹底的に大掃除をするのは、数年来のことだった。

 始めてみたら、記憶の隅に追いやられていた物が出てくるわでてくるわ。他人の創作物から、研究報告のレジュメまで。印刷物の山をさらうごとに、青春の残滓がぽろぽろとこぼれ落ちるようで、度々手が止まってしまった。

 そんな中から発掘されたのが、以下のプロット(だと思う)を書きつけた、使いかけのメモ用紙だ。


   戦争中、傍目からは無軌道に、しかし彼女なりのルールがあってSEXを繰り返す女。
   彼女の恋人である青年と、彼の友人である幼い少年は、バーナード・ショーというアニメのキャラクター(メスのウサギ、二足歩行)を幻視する。
   他、女とSEXする将校(青年)、彼らの隣人である老夫婦など。
   砂場→ バーナード・ショーによって砂山が踏み潰される→ 一同驚愕


 自分でも訳がわからない。最初は既成の小説や映画のストーリー・ラインを覚書き程度にメモしたものだろうかとも推測したが、内容が支離滅裂で、きっと僕の創作なのだろうと思う。

 セックスをアルファベットで表記しているところが、何だかいやらしい。それに、「メスのウサギ」なのにどうして名前が「バーナード」なのだろう。そもそも、「バーナード・ショー」はアイルランドの劇作家だ。

 当時の僕は何をしたかったのか、自分でもよくわからない。
タグ:第22日目
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