小島信夫と「音」 [日記/kazuya/夏の椅子]

男がひたすら「音」を追いかける。これは笑うべき事態なのか。小島信夫の短編小説『音』を読んだ。

男は下宿の二階に住んでいる。ある日を境に、急に「音」が聞こえだす。「二階の部屋をゆさぶるように」響いてくる。どうもラジオの音のようだ。男は「音の主」を捜しはじめる。

どこから聞こえるとも知れない「音」を追いかける。それはある場所では耳をつんざくほどに聞こえ、ある場所で消え入りそうだ。目の前で聞こたかと思えば、次の瞬間にはアタマの後ろから聞こえてくる。「音」の乱れた遠近感が男を惑わせる。いや逆に、男の錯乱が遠近感を狂わせているのか。いずれにしても、「距離」の問題だ。

 〈……私は今や不当に干渉されすぎ、自分の存在を失いそうな、自分と他人との別れ目の一線が消えてしま いそうな、心もとないそれでいて、さわがしい気持にかられはじめたのである。〉

とは、騒音になやまされる男の述懐である。「自分と他人の別れ目の一線」とは何か。
距離を経て「くたびれた音色」として闖入する「音」の正体をつきとめたとき、男は妙な「なつかしさ」を感じる。

 〈……それは何かなつかしいほどの気持を私にいだかせた。私はそのなつかしさから、いよいよこの音こそ、  まちがいなく私の求めているものであると考えた。〉

注意しなければならないのは、この作品で「音」が単なる空気の振動を超えた叙情性のある何かとして捉えられていることだ。にもかかわらず、それはやはり「音」であって「音楽」とは呼ぶべくもないものなのであるが。

いざ「音の主」と対峙する段になると、男は思わぬ歓迎を受ける。「罠」の臭いがする。
そして、相手の男は「距離」の話を始める。これもまた奇妙だ。

相手の男もまたある下宿の二階に住んでいる。が、その階下の住人である女が、近所の妻子持ちの男に惚れたものの想いが叶わず、嘆きから度々「自殺未遂」を起こす。二階の男は成り行きから彼女の「責任者」になっているせいで、男が少しでも気を許すと、それにつけ込んで自演の「自殺未遂」を起こすというのだ。

女に気を許していない、赤の他人である証明として、二階の男は、階下の女や近所の住民に向けてわざと騒音を発している。

 〈……ところが、あなたのような遠方の方が、近所の人より先にお出で下さるとは、さっきも云った通り、何とい う不思議な因縁でしょう。まったく距離というものは妙なものですね。あなたもそうでしょうが、私は今後もう距  離というものは信用しないことにします。〉

と二階の男は言うが、主人公は次のように反論する。

 〈「あんたは、僕に云わせれば、ムシロ距離を信用しすぎていますよ」〉

見たところ、二階の男が騒音によって女を突き放すどころか、むしろ彼女はそれを聞いてさえいない。悲しみの中で全く耳に入っていないのだ。だから、二階の男は「距離を信用しすぎて」いる、と。

「音」の聞こえる「距離」についての議論から、二階の男と階下の女の、あるいは二階の男と主人公の男との、心理的な「距離」が浮き彫りにされる。「距離」は遠いのか近いのか、信用すべきか信用すべきでないのか、読んでいるこちらの側まで遠近感をかき乱される。

二人の議論は最後まで噛み合わず、逆上した二階の男の部屋から、主人公はほうほうの体で逃げ出す。しかし、皮肉なことには、自分の下宿のそばでまた別の騒音を耳にする。

 〈……それにこの音があの音かも知れないが、そうでないかも知れない。私はこの数日来当惑しつづけていた が、こんどこそ当惑の意味が分かるような気がした。〉

本作で、「音」は人間関係の、心の距離を崩すものを象徴するかのように描かれている。「音」は自他の境い目を消失させ、撹乱し、果ては遠き者と近き者を不合理に接合し分断する何ものかである。この短編『音』は言うまでもなく、諸々の作品を鑑みるに作家・小島信夫が気になっているのは、自他の「距離感」であると言えるのではないだろうか。作家自身の言葉を引けば「自分と他人の別れ目の一線」である。これが歪み、ある点で消失した先で何が起こるのか。

他作品の分析とあわせて、現象の考察は他日に期したい。(つづく)
タグ:第1日目
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mizuki

擦れ合わない“音”が小島信夫らしいと思いました。
(すみません、らしいといってしまうのはよくないですね。その“らしさ”とはなんなのか考え中です)

昨年ゼミの方々と高橋和巳編『戦後日本思想大系13-戦後文学の思想-』の一番最後に収められている小島信夫の「おそれとはずかしさ(2)」を読みました。短い、文学に対することが綴られた文章です。

ゼミには様々な知識、思想を持った方々(大学闘争の頃、背伸びをして難しい本を読んだ世代)がいるのですが、小島信夫の文章の根底にある感覚を「難しい」と言っていました。意外でした。

また、今まで戦後文学として小島信夫をとらえたことがなく、本書に収められた文章も取り立て戦後という感じがせず、編者である高橋和巳がどうして戦後文学に位置づけたのかいまいちわかりませんでした。そこで編集の意図が書かれた解説を読むと小島信夫が「くせもの」のような、「大人」のような気がしました。

by mizuki (2011-01-24 01:09) 

kazuya

僕は修士論文で小島信夫を研究する予定で、調査中なのですが、小島信夫は意識的に崩れた文体で書いていたようです。

「小島信夫の文章の根底にある感覚」を、一言で言うのは難しいです。個人的には、ロシアの文学者ミハイル・バフチンの「声」に関する論考、またリービ英雄や多和田葉子といった作家に見られる「言葉」の複層性に近い感覚だと思っています。しかし、mizukiさんの「擦れ合わない」という感想も的を射ていると思います。小島信夫は思春期に「吃音」(俗にいう「どもり」です)の障害もあったせいか、他者とのあるいは自分自身との、心や言葉の「擦れ合わな」さに対して、最期まで敏感であったというのが、僕の現段階での小島信夫像です。

初期作品の短編「汽車の中」や「音」を読んでみて、僕も予想以上の文体の難解さに驚きました。機会があったら読んでみてください。僕も「おそれとはずかしさ(2)」を「解説」とあわせて読んでみますね。

ちなみに、小島信夫が戦後文学であるかは、僕自身に文学史に関する知識がほとんどないので、答えることができません。恥ずかしいかぎりです。ちょっとまずいですね、勉強しておきます。
by kazuya (2011-01-25 02:39) 

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